綺麗事で生きる

心からの想いに触れたとき、人はエネルギーを取り戻す

自分の心からの想いを、
おもいきり表現しているとき。

理由はうまく説明できないけれど、
なぜか内側からエネルギーが湧いてくるような感覚
覚えたことはないでしょうか。

疲れているはずなのに、
不思議と力が出る。
心が前を向く。

あの感覚は、
無理をして生み出せるものではありません。

「こうした方がいい」
「こう見られたい」
という計算を超えたところから、
自然に立ち上がってくるものです。


現代は、
熱くなる人ほど、生きづらい時代なのかもしれません。

誰かのために必死になれば
「綺麗事だ」と言われ、
真剣に想いを語れば
「偽善だ」と冷ややかに見られる。

そんな空気が、
どこかに漂っています。

でも僕は、
それでもやっぱり思ってしまうのです。


人は、
誰かのために必死になっているときほど、
美しい。


人が心から涙を流す瞬間があります。

それは多くの場合、
自分の損得を超えて、
誰かを守ろうとしたとき

「ここまでしなくてもいいのに」
「そこまで背負わなくてもいいのに」

そう言われる場面で、
それでも手を伸ばしてしまう。

あの姿を見たとき、
胸が熱くなる感覚を覚えたことはないでしょうか。


「なんて美しいんだろう」

その感覚は、
特別な人だけのものではないと思うのです。

人間なら誰しも、
本当はあの感覚を知っている。


人の心の中には、
必ず「善なる想い」があります。

例外はありません。
全員の中に、それはあります。

ただ、その声はとても静かです。

「誰かの役に立ちたい」
「大切なものを守りたい」
「力になれたら嬉しい」

そうした想いは、
強く主張してきません。

だからこそ、
自意識の大きな声に、
簡単にかき消されてしまいます。

「自分がまず認められたい」
「損はしたくない」
「傷つきたくない」

頭でこねくり回した
言い訳や自己保身、
善悪や損得の思考が、
その上に重なっていく。


本当は、
もっとシンプルで、
もっと純粋な想いが、
あなたの中にも確かに存在しているのに。

頭ばかりを働かせて、
その声に耳を傾けなくなると、
人は少しずつ熱を失っていきます

何のために生きているのか、
わからなくなる。
理由のない不安が、
常に心のどこかに居座る。

それは、
あなたが弱いからではありません。


「心の声」よりも
「頭の声」を
優先し続けてきただけ
です。


誰かのために熱くなることに、
本当は理由なんていりません。

「親切にすれば、つけあがる」
「与えた分だけ、それが当たり前になる」

そんな経験をしてきた人ほど、
ブレーキがかかるのも自然なことです。

だから無理に、
人のために生きろ、
とは言いません。

ただ、
こんな問いを持ってみてほしいのです。


「自分は、どう在りたいか」
「自分は、どんな行動を選びたいか」

相手の反応ではなく、
評価でもなく、
見返りでもなく。


「自分が、何をするのか」

そこにだけ意識を向けてみる。


相手がどう思うか、
どう返してくるかは、
正直コントロールできません。

でも、
自分がどんな姿勢でいるかは、
選ぶことができます。

そこに意識を戻すと、
不思議と心はぶれにくくなります。

馬鹿にされるかもしれない、
報われないかもしれない、
そんな不安よりも、


「自分は、嘘をついていない」

その感覚の方が、
ずっと大きくなる。

心が温かい状態で、
日々を生きられるようになります。


心の中にある
「善なる想い」が発する声に、
少しずつ耳を傾けてみてください。

大きなことをしなくていい。
立派でなくていい。

小さな行動でいい。
自分が納得できる選択を、
ひとつずつ重ねていく。

そうやって「心」を大切にしていくと、
不思議と不安は薄れていきます。

感情は穏やかになり、
あなたの良さが、
少しずつ引き出されていく。


熱を持って生きることは、
危うさではありません。

人として、とても自然なことなのだと、
僕は思うのです。

 

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